ブロニカ開発秘話 第5話  おにぎりの味

 ゼンザブロニカは当時存在した様々なカメラの良い点を取り入れ,それらを1台にまとめたようなカメラである.単にカメラを設計製造し市販するだけであれば,ここまで凝ったカメラである必要はない.むしろ当時の世相を考えればある程度簡略化してでも,低価格で販売出来るものの方が商売になりやすかったであろうと思われる.ではなぜブロニカは,ここまでこだわりの強いカメラとなったのであろうか.それは善三郎氏が無類のカメラマニアであり,カメラに強い情熱を感じていたからであった.様々なカメラに飽き足らなかった彼は,世界最高の理想のカメラを自ら作ろうとし,またそれを成し遂げたのであった.

 善三郎氏は1911年,大きな米穀商の三男として生まれた.店員は150名を数えたという.善三郎氏はその米穀商を継ぎ,様々なアイディアでそれを発展させ,たいへんに繁盛したという.善三郎氏がなぜカメラに興味を持つに至ったのかは分からないが,彼自身の述懐によれば仕事の合間などに銀座のカメラ店に寄ることを楽しみとしており,結果として当時定評のあったカメラはそのほとんどを手中に収めることとなったという.もちろん当時(戦前)のカメラは今ほど安価ではない.ものによっては一般的な勤め人の年収に匹敵するものもあったはずだ.では善三郎氏は,そのような贅沢に慣れた浪費家であったのだろうか?ブロニカDが発売された当時,私費を投じて理想のカメラを作り上げた彼をして「二億円の"お道楽"」と題したインタビュー記事が週刊誌(週刊朝日,1959年5月10日号)に掲載されたことがあったが,しかしこの「道楽」は普通に言われるような「道楽」とはまったく異質のものであったようにしか思えないのだ.

 先に書いたように善三郎氏は家業の米屋を営んでいたのであるが,戦争は彼の運命を変えてしまう.1941年,米不足により米は政府の管理下に置かれ(米統制令),米穀通帳が発行されることとなる.米穀商は食糧営団に統合され,将来を案じた善三郎氏の父善蔵氏は米穀商を廃業してしまう.善三郎氏は食糧営団の参事となるが面白くなくてやめ,その後彼は米を運ぶのに用いていた多数のトラックを利用し運送会社へ転業したが,しかしこのトラックも軍に徴用された.戦後はもう,いちから出直すしかなかったのである.ここで彼らしいのは,戦前と同じ商売をするのではなく,彼自身が強く執着していたカメラで商売をするという道を選んだことであった.

 彼はまず,所有するカメラをもとにして神田多町(砂場そば店の隣)に中古カメラ店,新光堂写真機店を開設した.戦後の混乱期であるが,もと裕福な層が生活のためカメラを手放し,また新しい富裕層がそれを購入していく中でよく繁盛したという.それは正直な商売をしていたからということもあるのであろう.ある客がカメラを置いていった直後にそれが高くで売れた.慌てて売り主へ代金を余分に支払ったという逸話が残っている.

 しかし彼は他人が作ったカメラを売り買いするだけには飽き足らなかった.そこでこのカメラ店は人に任せ,自らは新光堂製作所を興す.これは最初からカメラ製造を主眼に置いて設立された工場であり,実際,設立直後にはなんとかしてカメラを作ろうとしたらしい.しかし設計にしろ工員にしろまだ未熟であったのであろう,それは成功しなかった.そこでまず,資金を得るため,また工作技術を磨くため女性用ブローチ,パウダーコンパクト・煙草ケース・ライターなど次々に製品を拡大していった.そしていよいよ1952年から再びカメラの設計製造へ向けて最スタートを切ったのであった.

 この記念すべきブロニカ発祥の地となったのは,板橋区上板橋.ここでブロニカを開発していたころのスナップショットと建物見取り図を以下に挙げる.善三郎氏,とにかく明治生まれである,実はとても質素な方であったという.社屋は自宅を兼ねていたのだ.彼の寝室は四畳半.善三郎氏のご子息(当時2名)とお手伝いさんは隣の三畳間で,他の座敷は仕事部屋であった.善三郎氏は米屋出身で,長年その商売を率いてきた経験からであろう,帳場と称する掘り炬燵のある六畳間に常駐し,出納管理を行いつつ社員を指揮していた.設計者たちは隣の畳部屋(十畳)に入った.ブロニカ設計当時の収入源は先に述べたように雑貨類の製造販売であったから,カメラの設計は出来るだけ自前でまかなう,あるいは工場と分けて人目に付かなくするという意図があったのかもしれない.その後この建物は1954年頃に改築し,設計室として新たに廊下と庭の一部を使い床の部屋にしたという.家屋部分はこれだけで,敷地のほかの大部分は工場の領域であった.

 それにしても全く,質素この上ない生活である.それが全ての業態において成功を収めた,彼なりの哲学であったのだろう.そもそもこの建物・土地を探したのも彼自身であった.そのときの思い出話を,善三郎氏は事あるごとに語ったという.・・まだ電車もあまり走っていない時期である.池袋から線路づたいに歩き,東上線大山と中板橋の中間にある陸橋の上(豊島病院付近)でおにぎりを食べた.その味が未だに忘れられないのだ,と.・・これほど彼の生き様と情熱を表すエピソードは他にないのではなかろうか.やはり,単なる起業以上の何かを感じざるを得ない.それはある意味では道楽であったのかもしれないし,また同時に,単なる道楽の一言で言い表すのもまた不適切であるように思われるのだ.

 およそライフワークとは,このようにして始まるものなのかもしれない.


新光堂見取り図


新光堂当時の写真(ZB=善三郎氏)

(2005.8)