東独の金属塊 REISS計算尺

計算尺の素材として有名なのは竹であろう.竹は温度変化による伸縮が小さいことから計算尺に向いているとされ,特に HEMMI の竹製計算尺は世界的な定評を得て,一時期は世界シェアの80%を握っていたという.他に自然素材としては木製のものがあり,一方,人工素材としてはプラスティックやアルミニウム製のものがある.しかし本当に自然素材がどのような場合でも優れているのだろうか.自然素材は吸湿によって伸縮し,高湿環境では表面に張られたセルロイド等の人工素材が剥がれたり,全体が反ったりするおそれもある.そもそも熱膨張係数が金属の中では大きめのアルミニウムであっても,20cm の計算尺の両端の距離が 10 度の温度変化で 46μm 変化するだけであり,固定尺と滑尺の温度差が10度に達することはまずありえない.精度の上で問題なることはまずないのだ.そのようなわけで,海外ではアルミニウムによって作られた計算尺が見られる.

金属製の計算尺としてまずあげられるのは米国の Pickett である.実際に使用する機会は幸いにしてなかったようだが,N600-ES というポケット計算尺はアポロ計画で採用され非常用として月着陸船に搭載された.Pickett の計算尺は滑りも滑らかで,表面の塗装もつや消しになっており使用しやすい.しかしその表面は塗装仕上げであり,そこに尺度が印刷されている.スレによってかすれたようなものはほとんど見られないが,やはり耐久性を考えると,ノギスやスケール(定規)と同じように金属そのものに刻印して欲しい.そのような計算尺はないのか・・というと,このREISSがまさにそのような計算尺なのである.

REISS 10インチ尺

REISS の10インチ尺であるが,形式不明である.この計算尺には尺度の記号は表示されていないが,表は上から 28cm // K A [B CI C] D L の配置となっており,裏側は LL1 LL2 LL3 の尺度となっている.つまり三角関数は計算出来ない.同じ形の REISS の計算尺は通常のマンハイム型,つまり裏面は三角関数になっているものが多いようだが,このタイプのものは資料があまりなく詳細は不明である.また計算尺の上部に28cm の定規がつけられている.裏面には唯一の樹脂パーツが取り付けられているが,べき乗を計算するには滑尺を表裏逆に差し替えたほうが便利であるためあまり使用する機会はなさそうである.またオーバーレンジのスケールも刻まれている.

REISS にはアルミ製の計算尺が多く見られるが,両面型の計算尺はいずれもカーソル全体が樹脂でできているようである.それに対してこの片面型の計算尺はカーソル部分が金属とガラスだけで出来ており,計算尺全体の特徴によく合うように思える.カーソルは円の面積を計算するための3本線カーソルとなっている.カーソルには幅があり,枠は細めで使いやすいといえる.

この計算尺の見どころであるといえるのは,このブリッジの構造であろう.通常はネジ止めされることが多いブリッジ部は完全に固定されている.貫通穴には金属が埋め込まれ,溶接されているように見えるが,その後,表裏ともに磨かれているため凹凸はまったくなく,光の反射でその様子が伺える程度である.定規のパーツのみネジ止めとなっている.

ブリッジ部分を外から見たところ.表面側にも溶接跡がわずかに見え,これはこの写真よりも冒頭の正面写真のほうがわかりやすい.滑尺の溝は深めで,角も適度に面取りされているが,表面の尺度が刻まれているところはエッジの立った直角で,クリーニングしている時に指を切ってしまったほどであった.定規の部分を見ると,その彫刻の深さが分かる.

表面に樹脂が張られた竹製の計算尺を含め,表面がプラスティック製の計算尺では金型のプレスにより刻印を行うことが出来る.もちろん印刷でも目盛りや文字を刻むことができるが,この計算尺ではすべての箇所を彫刻機で加工してあるようである.かなり手間のかかる工程であり,また1つ1つの文字にややばらつきが現れることは否めないが,こと耐久性の観点では最右翼に位置するであろう計算尺である.それぞれの尺度の精度も十分であるように思われる.

資料によると REISS は 1882 年創業で,製図器や測量機を製造していたらしい.計算尺は1912年からの製造で,第二次大戦後は東ドイツ域内にあったため,東側の製品でよく見られる品質に関する記号(角丸三角形に数字を組み合わせた記号)が本体と滑尺に刻まれている.

REISS 3209 ポケット計算尺

こちらは私が所有する中でも最小のポケット計算尺 REISS 3209 である.この計算尺ではいよいよ,ほんとうに金属とガラスしか使われていない.長さは 15cm ほどで,尺度は表面に 13cm // K A [ B CI C ] D L 裏面に S T が刻まれており,S尺は A / B 尺に対応している(2単位対数尺).要するにマンハイム改良型に属するの計算尺であるが,滑尺上下のかみ合わせの構造上,滑尺は裏向きに装着することが出来ない.裏面にはS尺・T尺それぞれ専用の指標が刻まれており,赤の◯が表のD尺の左の1のそばに,赤の参画が表のA尺の右の1のそばに刻まれており,対応関係を示している.

この計算尺で特筆できることは,前述のようにアルミニウムとガラスしか使われていないことだけでなく,計算尺本体が組み立て式でなく一体構造であり,1つの金属塊から削り出しによって製造されているようであることである.もちろん目盛りも刻印により加工されており,非常に硬派な作りで唸らされる.

裏面にはアクリル製等の透明な部材は用いられておらず,上下に S と T それぞれ専用の指標が設けられている.構造上,若干目盛りから浮いた位置にあるため,読み取り時には視差に気をつけたほうが良いようだ.S尺とT尺は,小数点以下が分・秒に対応するよう60進法を基準に目盛りが刻まれている(例えば上のスキャンを見ると,S尺の5°以下の領域や T 尺の10°以下の領域では,5分ごとに目盛りが刻まれている).

カーソルはガラス製で,おそらくステンレス製の枠に嵌められている.こちらではガラス面は十分,計算尺の表面に近く読みやすい.

緑色の携帯用ケースが付属していた.1960-1970年頃の製造と思われるが,特に風化もせず良い状態である.

計算尺の内容としてはシンプルなマンハイム型に近いが,表に L 尺があり,また CI 尺も刻まれていることで割に実用性は高い.短いだけでなく非常に薄く,持ち歩いて時々眺めるだけでも楽しい計算尺である.