独創的だが実用的 アグファ・スタンダード 距離計付き

世界初の距離計搭載カメラは1916年に発売されたコダック オートグラフィック・スペシャル No.3A 距離計付きであるが,このカメラは122フィルムと呼ばれる幅の広いロールフィルムを用いるカメラであった.この距離計は,その後 No.1A(116フィルム用), No.2C(130フィルム用)などの兄弟機にも展開されたが,いずれも現在使用されている中判フィルム(120フィルム)よりも幅広で,現在入手できるフィルムはそのまま装填することが出来ない.世界で初めて120フィルムを用いるカメラに距離計を搭載したのは,このアグファ・スタンダード 距離計付きと言われている.またこのカメラは同時に,ヨーロッパにおいて初めて距離計を備えたカメラでもあり,ライカに距離計が搭載され,コンタックスが登場する1932年よりも2年先行したカメラである.

このカメラはそのような歴史的価値だけでなく,距離計の薄さ,レンズの繰り出し方法,フィルム装填方法など各所に独創的な工夫が凝らされている.ここではそれらの独創的だが使いやすさや携帯性に貢献している工夫の数々を紹介する.

超薄型の距離計

距離計は軍艦部に搭載された黒色の薄い箱に内蔵されている.この黒色の外装はスライドさせることができ,使用しない時は距離計の対物窓と接眼窓の両方が塞がれる.距離計の一部にシルバーの部分が見えている状態が,距離計を使用する状態である.構図を決めるにはフレームファインダー(またはブリリアントファインダー)を用いるが,このフレームファインダーの接眼枠はこの距離計に覆いかぶさるように折りたたむことが出来る.

この距離計にはなんと,対物窓が1つしかない.対物窓が1つしかないのになぜ三角測量が出来るのかというと,被写体から肉眼へ直接入射する光と,距離計内部を通ってきた光を上下像合致式に合わせるのである.距離計の接眼窓は約 4mm 程度の薄い距離計の天地いっぱいになっているので,距離計を覗くと,距離計の像だけでなく,その周囲に被写体が直接見えてしまう.これを利用して距離合わせを行うのである.

上の写真では,左が距離が合った状態,右は外れた状態である.瞳孔の直径のために距離計の上蓋はぼやけ,実際には上の写真のように直接像と距離計像は重なりあって見える.よって上下像合致ではあるが,像が重なって見える領域では左右像合致式に合わせることもできる.接眼窓を覗く目を少し上に動かすと直接像が明るくなり,下げると距離計像が明るくなるため,目の位置をうまく調整するといい具合に2つの像が重なりあって見える.

距離計の内部は非常にシンプルである.基線長を作り出すために平行四辺形の形をしたプリズムがまず置かれ,その次に凹のシリンドリカルレンズ(円筒面レンズ),凸のシリンドリカルレンズが置かれている.このうち,凹のシリンドリカルレンズがレンズの繰り出し量と同じ量だけ移動することで距離計の像が左右に動く.極めてシンプルな構造だけに,簡単な清掃でクリアな見えを取り戻すことが出来る.

この形式の特徴に,各部品を高精度に位置合わせしなくても距離計が極めて狂いにくいことが挙げられる.プリズムを用いることで,2つの反射面同士の位置関係の狂いを防ぐとともに,光線の方向を曲げるためにシリンドリカルレンズを用いることで像の上下方向の狂いを防ぐ.シリンドリカルレンズの度はさほど高くないため,移動量に対する光線の向きの変化が小さく,ライカのように反射面を直接回す方法に比べて誤差や遊びに対する敏感度が極めて低い.この形式は後のコンタックスにも非常に似た構成で搭載されている.

ヘリコイド式のレンズ繰り出し

アグファ・スタンダードのもう1つの特徴として,レンズの前後移動がレール部分のラック&ピニオン機構等でなされるのではなく,レンズ脇のレバーを回すことでヘリコイド式(実際にはヘリコイド=多条ネジのかわりにカムが用いられている)にレンズが繰り出される点がある.きちんと整備されていれば,ガタなく軽い力でピント合わせを行うことが出来る.また距離指標がレンズの上に設けられており,カメラを上から見ることで距離・シャッター速度・絞り値が全て一箇所で確認できるという,当時では珍しい機能を実現している.

上の GIF アニメではレンズの繰り出しとともに距離計のカバーがずれているように見えるが,これは撮影時に手動で動かしたためで,自動的に蓋が開くような機構は備わっていない.

距離計へこの繰り出し量を伝えるために,距離計搭載モデルのアグファ・スタンダードではシャッター裏面から伸びたレバーがレンズボードに取り付けられたリンク機構を前方へ押す(青丸部).この動きがボディ側の細いチェーン(赤丸部)へ繋がり,そのまま距離計内のレンズの移動に用いられている.非常にシンプルだが十分な精度を持つ優れたシステムであるといえる.

装填しやすいフィルムホルダー

スプリングカメラなど初期のロールフィルム用カメラは,フィルム装填がしづらいものが多い.特に,ボディが板金で出来たイコンタやパールなどでは,フィルムスプールを受ける軸の幅を少し広げてフィルムを脱着する部分にバネが使われていたりして,あまりスマートとは言いがたい.それに対しこのアグファ・スタンダードでは,フィルム受けがガイドローラーともども上へせり上がり,さらに一方の軸が外側へ開くことで極めて容易にフィルム装填が出来る.

上の写真はスプール受けを押し込む前の状態である.このころ(1930年ごろ)のカメラにはフィルム圧板のないものもあるが,さすがにフィルムを製造するメーカだからだろうか,きちんと圧板が備えられている.赤窓は正方形である.

長秒時を持つエバーセットシャッター

アグファ・スタンダードにも幾つかの異なったレンズやシャッターが搭載されたモデルがあるが,ここで紹介するのは比較的よく見られる,Agfa Anastigmat Trilinear 10.5cm F4.5 が搭載されたモデルである.このレンズはトリプレット形式のようであるが,前群も組み立て式になっており,分解することですべての面が清掃できる.そして面白いのが,このシャッターである.レンズの右に見えるマークから分かるように,このシャッターは AGC (Alfred Gauthier Calmbach, 後のプロンター)が製造したもので,見たところシャッターチャージレバーがないが,それもそのはず,このシャッターはエバーセット型(シャッターボタンを押し込んでいく力そのものを動力として動くシャッター)なのである.

エバーセット型シャッターというと単速かせいぜい 1/25〜1/100 の三速ぐらいのものが多いが,このシャッターにはスローガバナーが搭載されており, 1/2, 1/5, 1/25, 1/50, 1/100 の5速と T, B のポジションがある.上の動画ではシャッターの開閉が殆ど見えないので,是非音声を聞いて欲しい.エバーセット型シャッターにはシャッターボタンが極めて重いものもあるが,このシャッターではそういうこともなく,軽い力でシャッターを次々と切ることが出来る.セルフコッキング要らず,ということになるが,多重露出のミスを犯しやすいとも言える.

1/2 秒より長い秒時は B を用い,時計などを見ながら調整することで十分だし,1/100 より速い速度は,なるだけ絞って撮影するというポリシーでは問題にならない.必要十分なシャッターであると言えそうだ.なおこのシャッターは2枚羽根で,一説ではシャッター羽根は紙製であるということである(真偽は未確認).ともあれ,ダイヤルセットに似たシャッター速度設定部はいつでも両方向に動かすことができる上,カメラの上からも値が読めるためにカメラの状態(距離,シャッター速度,絞り値)をカメラの上から一読できる.

他機種との比較,その他

1930年代のレンズボード式・距離計搭載ロールフィルム専用カメラ(69判カメラ)を並べてみた.右はエンサイン カーバイン・オートレンジである.大きさはほぼ同じであるが,やはり距離計部分の突出が最大の違いであろう.ただしエンサインはレンズのシフトやライズが出来る(アグファはどちらもできない).

カメラを閉じたところである.どちらも前蓋まで完全にフラットになる.アグファは三脚穴(前蓋に縦位置用が,また底に横位置用が備わる)が両方とも大ネジになっている.

細かい部分であるが,アグファの裏蓋の開閉機構はモダンなもので,後のカメラの多くに見られるように,小さなノブを下方向にずらすと裏蓋が開く.ただし,フレームファインダの接眼枠(距離計に覆いかぶさった部分)を起こさないと裏蓋を開くことはできない.

撮影例

整備を終えたので簡単な試写を行った.上の写真は F5.6 での撮影例である.中心部は非常にシャープで申し分ない.そのかわり像面湾曲は大きめで,周辺部の画質の低下が見られる.距離計を備えていることもあるので,このレンズの特性を活用した絵作りをすると楽しいカメラである.

整備

この時期のアグファの最大の敵は「グリス」である.当時のグリス(写真で緑色の部分)は変質によって,接着剤やガムのような極めて粘度の高いものに変質してしまう.この個体も,到着時にはレンズが一切繰り出せない状態(写真左)であったため,レンズスタンダード部分を取り外し,レンズも外した上でグリスを分解することなく除去した(写真右).ただし除去するにはレンズを繰り出す必要があり,暖めると動きやすい(ドライヤーを用いると良いが,海外では調理用のオーブンで加熱したという報告もある).またこのグリスは幸い,有機溶剤により緩みやすい.私はスプレーからビンに溜めたキャブクリーナーを適宜,綿棒につけてこすり取った.

このレンズスタンダードは意外と凝った構造となっており,底部分にはレンズを引き出した位置で固定するラッチ機構のほか,レンズが繰り出されているとこのラッチの解除を禁じるための機構(レンズを仕舞うにはまず,レンズ繰り出しを無限遠に合わせる必要があり,そのための安全機構)も備わっている.

参考文献