ブロニカ開発秘話 第6話 幻の社名
2005年10月20日,株式会社タムロンは最後に残ったブロニカブランドのレンジファインダーカメラ「ブロニカRF645」生産中止をアナウンスし,同時に1959年に発売された「ゼンザブロニカD」以来,47年間続いたブロニカ中判カメラ事業の終了を宣言した.一眼レフ各機種が次々と生産中止になる中,いずれはこの日が来るという予感はあったものの,吉野善三郎氏が生涯をかけた「ゼンザブロニカ」の火がとうとう絶えたこと,またそれを正式に念押しされたようで寂しい思いが募る.上記のように,今回のアナウンスはブロニカ事業を1部門として所有する(株)タムロンから行われたが,これはブロニカ(株)が1998年7月に(株)タムロンへ吸収合併されたことによる.そこで今回は,ブロニカにまつわる法人の変遷の視点からブロニカの歴史を明らかにしてみたい.
第5話で述べたように,吉野善三郎氏は戦前から様々な事業で手腕を発揮したが,カメラにまつわる事業は戦後神田に開設した新光堂写真機店に始まる.その後,カメラの製造を目的に新光堂製作所を創設し,各種アクセサリを製造する傍らブロニカの開発が続けられたのはこれまでに述べたとおりである.また後に,S2型などが数多く販売され,隆盛を誇った時代から長きにわたり用いられたゼンザブロニカ工業(株)は,もっとも知られた社名であろう.しかしその影で,実には10を優に超える法人が吸収・合併を繰り返していたのである.
そもそも善三郎氏は,当初より用いていた新光堂という社名がとても気に入っていたようである.第1話で述べたように,ゼンザブロニカという商品名はカメラが発売される寸前まで決定しなかったのであるが,当時,この新しい看板商品を社名とすることに反対し,新光堂の名前に固執していたとのことだ.例えば昭和36年10月付けの新組織編成表でも,ブロニカカメラ(株),(株)ブロニカ,ブロニカ化学(株)の3社名とともに筆頭には「新光堂」と記されており,当時の本社玄関に掲げられていたのもこの新光堂であった.ただし末尾に示した名刺にあるように「新光堂」の名には株式会社などの文字が付かず,肩書きも付けられていないことから法人登記がなされていなかったのかもしれない.
同様に依然,謎の中にある社名が「ブロニカカメラ株式会社」である.この社名はブロニカDが発売された当時の製造元表記として,カタログや新聞広告等の下端に記されているものである.またブロニカD本体や当時のアクセサリにも "BRONICA CAMERA INC." とあり,これはブロニカカメラ株式会社に相当する海外向け表記である.しかしこの名称は,対外的には用いられていたものの,社内での存在感が大変低いものであったという.その上,ほどなくしてゼンザブロニカ工業(株)へと変更されてしまったのだ.
今回,この社名を含む法人名称の変遷についてブロニカOBの方々やブロニカ研究家へ八方手を尽くし,教えを請うた.なんと法人登記の調査にもあたっていただいたが,残念ながら登記された形跡を見つけることは出来なかった.しかし当時を知る複数のOBから貴重な証言をいただいた.この社名はブロニカDの販売より当面対外的に使用するものの,後の変更が前提で,登記はしなかったのではないかというのである.その理由がまた面白い.ブロニカD販売当時,社名をブロニカカメラ(株)とすることとなり,本体刻印や印刷物はそれで手配したが,念のため善三郎氏の奥様が易者に判断を依頼した.その結果,この名称はまずいと言うことになったというのである.
ブロニカは労働争議に代表される社内の複雑な事情に対応するため,また製造や経営の形態についても市況や変化に対応するため,試行錯誤を繰り返しながら激動する写真業界を生き抜いてきた.しかしタムロンによる吸収合併と時を同じくして始まった,デジタル化の大波へ乗ることはなく,銀塩の引き潮とともに静かに去っていった.だが,虎は死して皮を残すという.ブロニカは,あなたにも何かを残してくれたのではないだろうか.
ブロニカ関連法人年表(pdf)
善三郎氏の当時の名刺