必要にして十分 ダルムシュタット計算尺

計算尺はその発展に伴い,様々な尺度が発明され,多様な計算をこなすことが出来るようになった.そして技術者用両面計算尺などでは20を超える尺度が刻まれるようになり,尺度の数が高級計算尺の証となってきた.しかし使用しない尺度があっても無駄なだけであり,かえって混乱をきたすことにもなりかねない.それでは「ちょうどいい」必要にして十分な尺度とはどのようなものか.その1つの答えがこのダルムシュタット計算尺である.

尺度の多い計算尺は両面型であることが多い.たしかに多くの尺度を無理なく納められ,表と裏を連動させながら計算するなどの高度な使用法もあるにはあるが,机の上で使うには少々使いにくい場合がある.両面計算尺は特に,机の上に置くとカーソルが机に触れたり,安定して置けないものが多い.ARISTO や Faber-Castell の最終期の計算尺では2/83Nのようにブリッジに足がついており,これによって表・裏どちらでもカーソルが机から浮くようになっているものはあるが,それでも計算尺を支えているのは両端だけであり,たわみが生じてしまい,これによってカーソルが机に触れることもある.やはり片面計算尺のほうが机の上では安定して使用できるのだ.その点,ダルムシュタット計算尺は片面型でありながら高度な計算が可能となるよう工夫されている.

片面計算尺は,例えば REISS 3209のように,表に加減乗除などの基本的な尺度のみを配置し,滑尺の裏面に三角関数を配置したマンハイム型やリーツ型が多く見られる.ひと通りの計算は理論上可能ではあるが,やはりL尺を用いたべき乗の計算はまどろっこしい.そこで三角関数に関する尺度を表に移し,滑尺の裏面に LL 尺を配置したのがダルムシュタット計算尺である.また多くのダルムシュタット計算尺では三角関数とともに P 尺が設けられているものが多い.

片面計算尺ではその一辺が斜めに加工され,そこに定規が刻まれているものが多い.実際に机上で様々な作業をするときに,この定規が実は便利なのだ.例えば定規を用いて30°の角度に線を引きたい場合,片面計算尺でさっと三角関数が使用できると便利である.ある枠をn行m列のマス目に区切るとか,円錐の展開図を書くとか,単位の換算をするとか・・そういうときに計算尺の各種機能は威力を発揮する.計算尺で求められる精度で十二分なこういう作業にこそ,さっと計算尺を使えるとクールだし,またそのような場面では片面計算尺であってこそである.このような場面で LL 尺を使う機会はあまりないかもしれないが,三角関数が表にあり,P 尺も備えるダルムシュタット型は,実は現代でも実用的な計算尺なのである.

ARISTO Nr. 967 Darmstadt-D

ARISTO の計算尺であるが,社名そのものは当時 Dennert & Pape であった. Dennert & Pape は1872年に計算尺の製造を開始し,1886年には木の表面にセルロイドを貼り付けた計算尺の特許を取得した.このように自然素材にセルロイドを貼り付ける手法はその後,日本において竹との組み合わせによって一般化する.しかしDennert   Pape は1936年に ARISTOPAL (ASTRALON) という新素材(ポリ塩化ビニル樹脂の一種)を採用した計算尺を開発する.この素材は大変柔軟で,大きく曲げても折れにくく,寸法安定性も有する(右の写真,引用元:100 Years ARISTO Slide Rules).Dennert & Pape はこの素材を用いた計算尺に ARISTO なる名称を与え,のちに社名にも ARISTO の文字を追加する.

ARISTO はダルムシュタット計算尺の発売でも先鞭をつけた.ダルムシュタット計算尺はダルムシュタット工科大学の Alwin Walther が開発した形式で,"System Darmstadt" の名称とともに急速に広がりを見せたが,ARISTOは最初にダルムシュタット計算尺を発売したメーカの1つである.

ここで紹介する ARISTONr. 967 は,裏面の刻印から 1949年製のようである.なお戦後は物資不足のため良好な材料が入手できず,ARISTOが計算尺の製造を再開したのが1948年と言われている.尺度は表面に 28cm // K A [B CI C ] D P S T が設けられており,L は側面(手前側)に位置している.また滑尺の裏面には LL1 LL2 LL3 が配置され,固定尺の裏面には11インチの目盛りも刻まれている.なお後に作られた,より多く見られる Nr.967U では側面のL尺が滑尺裏面に移動している.ダルムシュタット型の計算尺に多い傾向ではあるが,尺度の説明は記号ではなく数式表記のみとなっており,またオーバーレンジも適度に刻まれている.裏面の透明部分にもヘアラインがあるが,LL尺の使い方からして表裏を差し替えて使うのが本来の使い方だろう.多くの片面方計算尺では,固定尺の上と下とに裏面の薄板が差し込まれるなどの組み立て式の構造を持つが,この計算尺では固定尺全体が一体構造になっている.

この計算尺は上の写真のような箱に入った状態で入手した.どうやら新品当時からの箱のようである.長い年月を経て,計算尺の表面は若干アイボリー色に変色しているが(滑尺の裏面はそれよりも白く,それとわかる),全体として精度も悪くなく,プラスティック製のカーソルもクリアで,まだまだ実用に耐える状態を保っている.

REISS Darmstadt ポケット計算尺

東ドイツ REISS が製造したダルムシュタット型の5インチポケット計算尺である.尺度は表側に 15cm // K A DF [ CF CIF CI C ] D P S が配置されており,滑尺の裏面には LL1 LL2 LL3 L が刻まれている.標準的なダルムシュタット式とは異なり, A/B の代わりにπ切断の CF/DF が配置されることで,高精度な計算と目外れの防止を両立しており,現代的で使いやすい計算尺である.裏面にはヘアラインがないため,滑尺裏面の LL / L 尺は滑尺を表裏差し替えて使うほかない.右端に書かれている DDR はドイツ民主共和国(東ドイツ)を意味し,滑尺に書かれている△に1の記号は東ドイツ製の工業製品の多くに刻まれている品質を表す記号である.この計算尺でも尺度の説明は記号ではなく数式表記となっている.

この計算尺はポケット計算尺らしく,青色の柔軟性のあるケースに納められていた.おそらく製造年代はさほど古くなく,やけもない良好な状態であるが,一般に東欧圏の製品は時代が下るに従って品質が低下していく.この計算尺では目盛りが全体として左下がりになっており,左端の DF / C の目盛りが CF / D の目盛りよりも短くなっている.ただし尺度の精度などに問題はなく,細身でくっきりと刻印されているし,この計算尺も固定尺全体が一体構造で狂いにくく,カーソルもクリアで使用には問題ない.